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2014年1月19日日曜日

邪馬台国について

邪馬台国論争 九州説と畿内説の決着は?

 邪馬台国はどこにあったのか? いまだに研究し続けられているテーマだが、九州説と畿内説を要約すると次のとおり。

◇九州説の根拠

 東京帝国大学の白鳥倉吉は、明治43年(1910)、著書の中で「魏志」倭人伝の記事の「水行~」「陸行~」に続く「日数」をひとまず無視し、「里数」に注目している。
 すなわち、帯方郡から北部九州沿岸地帯までの距離が1万700里で、同じく邪馬台国までの総距離が1万2000里と記されていることを重視した。つまり、沿岸地帯から邪馬台国までの距離は1300里となり、これならば、北部九州のどこかに比定できると主張し、具体的には、肥後(熊本県)ではないか、と推理したのだった。

 ◇畿内説の根拠

 京都帝国大学の内藤虎次郎は、中国の古典の中に、「東と南」「西と北」を混同する例があり、「魏志」倭人伝のいう「南」とは「東」のことではないか、と指摘したのだった。すなわち、北部九州沿岸地帯から「東に向かって水行十日、陸行一月」ならば、ちょうどヤマトにたどり着く、と考えたのである。
 「魏志」倭人伝に「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」と記されているのは、「臺」を「壹」と誤ったもの。
 卑弥呼とは、「日本書紀」に現れる倭姫命で、第11代垂仁天皇の皇女娘のこと。ヤマトを代表する巫女。
 「壱与」とは、実際には「台与」と書き、第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命のこと。

                   出典:「古代史」闇に消えた謎を解く PHP研究所より