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2014年9月22日月曜日

MOOCで学習(中世における「自由」・「平等」・「平和」)

 中世における「自由」・「平等」・「平和」について  
~はじめに~
 このレポートは私がMOOC(Massive Open Online Courses、大規模オープン・オンライン・コース)というのを知り、「日本中世の自由と平等」の講座を初めて学習したときの感想文である。講師は東京大学教授 本郷和人氏。
◆講義内容
 歴史は科学であり、また、「ゾレン」と(当為)と、「ザイン」(実情)という二つの歴史認識をもって歴史を捉えることが大切であることを学んだ。
「自由」は・・・
 中世は、荘園制の中で、土地の「所有」という概念が成熟していく過程であり、所有権の未成熟時代であったと言える。それは、土地を与えることは、源頼朝の時代は、あくまでも土地の権利のことを言い、後の豊臣秀吉の時代になると、その土地すべてを所有するというカタチになる。後者の時代になってようやく、所有権が成熟したと言える。ドイツの哲学者ヘーゲルの『法の哲学』に「自由とは所有である」と表現している。この言葉を借りると、中世という時代はまさに「自由」が進展する過程であると言える。
「平等」は・・・
 中世は、村落(リゾーム)の安定のために仏教思想による「一味同心」が浸透していった時代であった。『法然上人絵伝』によると、法然の弟子になった熊谷直実は、身分差別により、法然と九条兼実との法談を聴くことを許されず、「人は平等である」と異議を唱えたことが記録されている。織田信長は理念の異なる、「平等」への指向を内包する一向宗を弾圧した。その戦いは、一つの頂点をもたない「リゾーム」と武士集団「ツリー」の戦いであった。中世的な「平等」というものは、戦いの中で、いったん収束する。
「平和」は・・・
 戦国時代が終わり、日本は一つに統一された。その後、江戸時代には、急激に人口が増加した。江戸時代初めの100年で日本の人口が1300万人増加したのに対し西暦600年から中世を含めた千年の間にその増加は600万人にとどまっている。
それは、中世よりも江戸時代が「平和」な時代だったことを意味し、古代から中世が終わるまでの人口の増加を見ると緩やかであたたり、中世には、本当の「自由」はなかったのではないかと推論される。
 以上、簡単にまとめると・・・
 中世は、政治、文化、思想と多様な側面と新しいものを生む多くの可能性をもっていた時代であった。「自由」、「平等」は発展過程にあり、決して「平和」な時代であるとは言えない時代であったと思われる。
  ----ということを学び、中世という時代を認識できた。

2014年9月9日火曜日

角館のお祭り…秋田イベントその18

 角館のやまぶつけを何十年ぶりだろうか久しぶりに見に行った。小さいころに見たことがあったが、物心がついてなかったので、あまり、記憶に残っていない。期待しながら町に入った。このお祭りは9月7日~9日の3日間、行われる。18台の曳山には笛、大太鼓・小太鼓、擂り鉦、三味線等により飾山囃子を奏でる人たちが乗り、囃しながら、秋田おばこたちが艶やかに手踊りを披露する。曳山は神明社・薬師堂への参拝、佐竹北家への上覧等を目的として練り歩く。やまぶつけはお互いに曳山をひっぱって歩く途中で行われる。相手の曳山と話し合うことを「交渉」という。参拝等を終え、進行の目的がなくなると通行の優先権がなくなり、交渉しても決裂してしまう。実力で通ることになるため「やまぶつけ」の場面になる。この時が曳き手もお囃子も最高潮になり、祭りの頂点に達する。
 町をぶらぶらと歩いていると陽が暮れかけ初めて来た。少し先の小路で何やら交渉し合っている場面を見つけ、近くに行き様子を観ていた。しばらくすると交渉が決裂してしまったみたいで急にやまぶつけが始まった。やまが「ドーン!」とぶつかりあってびっくりした。迫力があって面白い。やまが壊れはしないかと気になったが、そんなことにおかまいなく、秋田おばこたちは囃しに合わせながらそのまま手踊りを続けていた。何度とやまぶつけは繰り返された。
 町の人たちは大人も子供もはっぴ姿で一年に一度のお祭りに溶け込んでいた。にぎやかで、派手で、楽しい、このような雰囲気は昔ながらの立ち並ぶ武家屋敷と相まって何とも言われない風情が感じられた。
 来年も来てみたい。今度は最終日の9日にしようと思っている。最終日は、やまぶつけがもっと激しくなるらしいので。
 
◆ 国指定重要無形民俗文化財「角館祭りのやま行事」
 毎年9月7、8、9日に行われる角館のお祭りのはじまりは、今から350年ほど   前。地域の繁栄や商売繁盛、家族の無病息災などを祈願するもので、神明社(9月7、8日)と薬師堂(9月8、9日)の祭りが一緒になったもの。 

「角館のやまぶつけ」